解体!名作映画

『市民ケーン』における多視点語りの構造とアメリカン・ドリームの記号論的解体

Tags: 市民ケーン, オーソン・ウェルズ, 多視点語り, アメリカン・ドリーム, 記号論, ミザンセーヌ

はじめに:映画史における『市民ケーン』の多層性

オーソン・ウェルズ監督による1941年の映画『市民ケーン』は、公開以来、その形式的革新性とテーマ的深遠さによって、映画研究における中心的参照点の一つとして位置づけられてきました。本稿では、この作品が構築する多視点語りの構造に焦点を当て、それがどのようにチャールズ・フォスター・ケーンという人物像を多義的に提示し、ひいてはアメリカン・ドリームの神話的イデオロギーを記号論的に解体していくのかを批評的に分析します。特に、語りの非線形性、個々の視点の限定性、そしてディープフォーカスに代表される革新的な映像表現との連関に注目し、作品の持つ多声性(ポリフォニー)と解釈の開放性を考察します。

多視点語りの構造と語りの信頼性(unreliable narration)の揺らぎ

『市民ケーン』の最も顕著な特徴は、ケーンの死後、彼の人生の謎を解き明かそうとするレポーター、ジェリー・トンプソンの調査によって、複数の人物の証言がフラッシュバック形式で提示される点にあります。それぞれの語り手——ケーンの財産管理人サッチャー、ビジネスパートナーのバーンスタイン、親友リーランド、二番目の妻スーザン、そして邸宅ザナドゥの執事レイモンド——は、ケーンとの特定の関係性に基づいた限定的な視点から彼を語ります。

この語りの多層性は、ポスト構造主義的な観点から解釈可能です。すなわち、単一の客観的な真実としてのケーン像は存在せず、彼の存在は、むしろ語り手たちの主観的な記憶、利害、感情によって構築される「テクスト」として現れます。例えば、バーンスタインはケーンのビジネス上の才覚を称賛する一方で、リーランドは彼の理想主義がどのように腐敗していったかを悔やみます。スーザンの証言は、ケーンの支配的な愛情がいかに彼女を窒息させたかを語ります。これらの証言は相互に矛盾し、補完し合いながらも、最終的に「バラの蕾(Rosebud)」という謎の言葉が象徴するケーンの核心に迫ることはありません。これは、ロシア・フォルマリズムにおける「ファブラ」(物語の出来事の時系列)と「シュジェー」(物語の語られ方)の乖離を極限まで押し進め、物語の「語り」そのものが意味を生成する主体であることを示唆しています。

語り手たちの証言は、観客に対しても、情報を受け身に受容するのではなく、自ら解釈し、それぞれの断片からケーン像を再構築することを促します。このプロセスは、ミハイル・バフチンが提唱した「多声性(ポリフォニー)」の概念と共鳴します。ケーンという人物は、統一された「私」としてではなく、複数の声の対話と衝突の中で形成される「主体」として描かれるのです。

ディープフォーカスとミザンセーヌが構築する意味空間

『市民ケーン』の革新性は、その映像表現にも深く根差しています。撮影監督グレッグ・トーランドとの協働により多用されたディープフォーカスは、前景、中景、後景の全てにピントを合わせることで、フレーム内のあらゆる情報に等価な視覚的重みを与え、観客に解釈の自由をもたらします。例えば、幼いケーンが雪の中で遊ぶシーンでは、手前の部屋で彼の運命が決められる大人の会話が鮮明に映し出され、遠景で無邪気に遊ぶ彼の姿と対比されます。このミザンセーヌは、子供時代の無垢と、その後の権力欲に翻弄される彼の人生のコントラストを象徴的に示唆していると言えます。

また、ローアングルショットや、天井からの撮影を可能にしたセット設計も特筆すべき点です。ウェルズは、ケーンの権力や支配欲、あるいは孤独感を強調するために、これらの視点操作を巧みに用いました。例えば、ケーンの邸宅ザナドゥの広大な空間は、彼の精神的な空虚さや他者との隔絶を物理的に視覚化しています。光と影の強いコントラスト、すなわち表現主義的な照明は、登場人物の心理状態や物語の不穏な雰囲気を強調し、ケーンの複雑な内面を映像的に示唆しています。これらの映像技法は、単なる視覚的な魅力に留まらず、物語の深層にあるテーマやキャラクターの心理を、記号的に観客へと伝達する重要な機能を有しているのです。

アメリカン・ドリームの記号論的解体

ケーンの人生は、新聞王として成功を収め、政治家を目指し、文化事業に投資するという、まさにアメリカン・ドリームの体現のように見えます。しかし、映画は、この輝かしい成功の裏側に潜む虚無と破滅を描き出します。ケーンが莫大な富と権力を手に入れるほど、彼は人間的な温かさや愛情、そして真の幸福から遠ざかっていきます。

彼の邸宅ザナドゥに集められた膨大な骨董品や美術品は、ケーンが所有欲を満たすために獲得した「物」の山であり、それらは彼の内面の空虚さを象徴する記号として機能します。これらの「物」は、彼が本当に欲していたもの、すなわち幼少期の純粋な幸福や愛情の不在を埋め合わせようとする試みの表れと解釈できます。

そして、映画全体を貫く「バラの蕾」というサインは、ケーンの精神分析的な深層を解き明かす鍵であると同時に、その解釈の不確定性を示す究極の記号でもあります。フロイト的な観点から見れば、それは失われた母との絆、あるいは抑圧された子供時代の記憶の象徴であり、ケーンの生涯を決定づけた原初の喪失体験を指し示します。しかし、映画のラストで「バラの蕾」が単なるソリの名称であることが明かされる瞬間は、その記号が抱え続けてきた神秘性を破壊し、彼の人生の謎を解き明かす「究極の答え」が存在しないことを示唆しています。ケーンが追い求めた幸福や成功は、最終的には記号の連鎖の中に埋没し、その本質が空疎であることを暴き出します。これは、物質的な豊かさによって精神的な充足が得られるというアメリカン・ドリームのイデオロギーに対する痛烈な批評であり、その神話的構造の記号論的解体であると言えるでしょう。

結論:多義性と解釈の自由がもたらす現代性

『市民ケーン』は、その革新的な多視点語りの構造と映像表現を通じて、単一の真実や固定された意味を拒否し、常に複数で流動的な解釈の可能性を提示する作品です。ケーンという一人の人物の複雑な人生は、観客が自ら能動的に意味を生成する場となり、アメリカン・ドリームという文化的イデオロギーの深層を批評的に探求します。

この作品の提示する多声性、そして映像と物語の構造が観客にもたらす解釈の自由は、今日のメディアリテラシーやポストモダニズム以降の物語論において、依然として重要な示唆を与え続けています。単なる映画史上の古典としてだけでなく、現代社会における情報過多と真実の相対性、個人の主体性と集団的イデオロギーの関係性を考察する上で、『市民ケーン』は尽きることのない分析対象であり続けるでしょう。