解体!名作映画

『マルホランド・ドライブ』における夢の表象と記号論的錯綜:ハリウッド幻想の精神分析的解体

Tags: デヴィッド・リンチ, マルホランド・ドライブ, 精神分析, 記号論, ハリウッド

はじめに

デヴィッド・リンチ監督による2001年の作品『マルホランド・ドライブ』は、その多層的な物語構造と難解なイメージ群によって、公開以来、映画研究者や批評家たちの間で活発な議論を呼び起こしてきました。本作は、観客が慣れ親しんだ物語論的枠組みを意図的に逸脱し、夢と現実、願望と挫折、そしてアイデンティティの曖昧な境界線を曖昧にする手法を採っています。本稿では、この作品を単なる謎解きとして消費するのではなく、その視覚的・物語的構造を精神分析的、記号論的視点から「解体」することで、ハリウッドという神話的な装置が個人に与える影響、そして夢の表象がいかに錯綜した意味作用を生み出すかを考察します。

夢の地政学と物語構造の二層性

『マルホランド・ドライブ』の物語は、大きく分けて二つのフェーズに分けることができます。前半は、記憶喪失の女性リタと、ハリウッドでの成功を夢見る女優志望のベティが、リタの過去を探る中で絆を深めていくサスペンス調の展開です。しかし、物語の後半では、登場人物の名前や関係性が逆転し、ベティは挫折した女優ダイアン、リタは成功した女優カミーラとして再構成されます。この劇的な転換は、多くの観客を混乱させると同時に、作品が通常の物語ロジックを超えた「夢の論理」によって構築されていることを示唆しています。

フロイトは、夢を「願望充足の試み」と定義し、夢の働きを「凝縮」と「移動」という二つの主要なメカニズムによって説明しました。ベティの物語は、ダイアンの無意識的な願望、すなわちハリウッドでの成功、魅力的で愛される自分、そしてカミーラとの幸福な関係が凝縮されたものです。リタが失われた記憶を取り戻す旅は、ベティ(ダイアン)が自身の理想の自己を再構築しようとする願望の象徴と解釈できます。夢の論理に従えば、前半のサスペンスやロマンスは、現実の苦痛や失望から逃避するための無意識的な「移動」であり、ダイアンの現実における絶望的な状況が、夢の中では都合の良い形で再配置されていると見ることができます。

リンチは、この物語の二層性を視覚的なディテールにも埋め込んでいます。例えば、映画冒頭のダンスシーンや、ベティが叔母の部屋に入る際のショットは、あたかも観客が夢の中へ誘われるような没入感を伴います。映画の最後に青い箱が開かれ、ダイアンの現実が露呈する場面は、フロイトが言うところの「夢の臍(へそ)」、すなわち無意識の深淵へと観客を引きずり込むような経験を提示しています。これは、物語が現実を隠蔽する夢のベールを剥がし、不快な真実を突きつける瞬間であり、観客の認知にも強い衝撃を与えます。

ハリウッドという装置と幻視の記号論

本作において、ハリウッドは単なる舞台装置以上の意味を持ちます。それは、「夢の工場」として個人の願望を吸収し、その一方で挫折した者を冷酷に排除する、巨大な記号的生産装置として機能します。ダイアンが抱くハリウッドでの成功への願望は、ハリウッドが生成する神話――スターダム、富、愛――に深く根差しています。しかし、その神話は同時に、多くの個人を絶望へと追いやる幻想でもあります。

クラブ・シレンシオのシーケンスは、この記号論的錯綜の核心をなしています。司会者は「オーケストラはいない。これはテープだ」と語り、実演されているかのように見えるパフォーマンスが、実は単なる模倣、つまり「記号の記号」であることを明かします。にもかかわらず、観客(そしてリタとベティ)は、その「幻」に感情を揺さぶられます。これは、バルトが『ミトロジー』で分析したように、現代社会がいかに「神話」――虚構性にもかかわらず、自然で普遍的な真実であるかのように提示される物語やイメージ――に満ちているかを示唆しています。ハリウッドは、まさにそのような神話を生成し続ける装置であり、クラブ・シレンシオは、その本質をメタフィクション的に暴き出すシーンと言えるでしょう。

青い鍵と青い箱、赤いランプといった特定のモチーフも、作品全体を貫く重要な記号です。青い鍵は、記憶や真実へのアクセスを象徴しているように見えますが、同時に無意識の抑圧された領域への危険な扉でもあります。青い箱が開かれることで、ダイアンの悲惨な現実が露呈し、夢の構造が崩壊します。これらのオブジェクトは、物語の転換点において象徴的な力を持ち、観客の解釈を誘導する強力な記号として機能しています。

女性的表象と視線の主体

ローラ・マルヴィーが提唱した「男性の視線(male gaze)」の概念は、古典的ハリウッド映画における女性の客体化を説明する上で有効ですが、『マルホランド・ドライブ』は、この視線に対する批評的な応答、あるいはその変容を示す可能性があります。作品の多くは女性キャラクターを中心に展開し、男性キャラクターは権力的な立場にいるものの、しばしば脇役的、あるいは無力な存在として描かれます。むしろ、女性間の視線、欲望、そして葛藤が物語の推進力となっています。

ベティとリタの関係、そしてダイアンとカミーラの関係は、女性間の共依存、愛、裏切り、そして殺意といった複雑な感情を露わにします。ベティがリタに抱く保護欲や性的欲望は、ダイアンがカミーラに抱く嫉妬や復讐心と表裏一体であり、同一の主体が持つ二面性を浮き彫りにしています。ここで示されるのは、男性の視線によってのみ構築される女性像ではなく、女性が自らの欲望や選択によって、主体として、あるいは他者との関係性の中で、いかに自己を構築し、また崩壊させるかという主題です。ダイアンの悲劇は、ハリウッドの幻想に囚われ、自己のアイデンティティと欲望が破綻した結果として描かれ、女性が自立した主体であろうとする際の困難さを象徴しています。

結論

『マルホランド・ドライブ』は、単なるサスペンスやロマンスに終わらず、夢の論理、記号論的錯綜、そしてハリウッドという装置の批評的考察を通じて、人間の無意識と現実の複雑な関係性を深く掘り下げた作品です。リンチは、物語の線形性を意図的に破壊し、観客を認知的不協和の状態に置くことで、映画体験そのものを精神分析的な探求へと誘います。

本作が提示するハリウッドの幻想は、成功という甘美な夢の背後に潜む冷酷な現実を暴き出しています。そして、女性的表象の複雑な描写は、古典的映画理論に対する新たな視点を提供し、女性が欲望の主体として、いかに自己を構築し、また破壊しうるかという問いを投げかけています。デヴィッド・リンチは、この作品を通じて、映画というメディアが単なる物語の伝達装置ではなく、人間の深層心理と社会構造を解体し、再構築する強力な視覚的・聴覚的装置であることを示しています。