『サンセット大通り』における視線とメドゥーサ:ノワールにおける女性像とハリウッドの自己批判
はじめに
ビリー・ワイルダー監督の1950年の作品『サンセット大通り』(Sunset Boulevard)は、フィルム・ノワールの傑作として、またハリウッドの自己言及的な批評として、映画学において繰り返し分析されてきた作品でございます。本作は、夢の工場ハリウッドがその陰でいかに個人を蝕むかというテーマを、サイレント映画時代の忘れ去られたスターと若き脚本家の破滅的な関係を通じて描き出しております。本稿では、特に「視線」の概念に着目し、ラカン派精神分析的視点、フェミニズム映画批評の枠組み、そしてハリウッドの自己批判という三つの側面から、ノーマ・デズモンドのキャラクター、彼女を取り巻く空間、そして物語の構造を解体し、その多層的な意味を考察いたします。
ノーマ・デズモンドの「メドゥーサの視線」と精神分析的アプローチ
『サンセット大通り』の中心には、かつての栄光に囚われ、狂気を募らせていくサイレント映画の大スター、ノーマ・デズモンドが位置しております。彼女の存在は、物語の語り手であるジョー・ギリスを破滅へと導く「ファム・ファタール」の系譜に連なると解釈されがちでございますが、その本質はより複雑で、男性中心的な視線に対する抵抗、あるいはその反作用としての自己破壊的な権力の表象と捉えることができます。
ノーマの視線は、単なる欲望の対象ではなく、鑑賞者をも含めたあらゆる視線を「石化」させるメドゥーサの如き力を持つものとして描かれております。彼女の邸宅、閉ざされた空間は、外部の視線から隔絶された自身の世界であり、そこでは「かつてのノーマ・デズモンド」という幻想が絶対的なリアリティとして君臨しております。作中、ノーマはジョーに対して幾度となく「カメラは嘘をつかない」と主張し、過去のフィルムを繰り返し鑑賞することで、自身のイメージを再構築しようと試みます。しかし、その行為自体が、彼女が現実と虚構の境界を見失っていることを示唆しているのです。
ラカン派精神分析の観点から見れば、ノーマの視線は「眼差し」(le regard)の概念と深く関連しております。彼女は、他者からの「眼差し」によって自身の存在が形成されることを知悉しており、その「眼差し」が失われたことで、自己存在の危機に瀕します。彼女の狂気は、この「眼差し」を取り戻そうとする必死の試みであり、最終的にジョーを殺害し、カメラに向かって「オールライト、デミル、私は準備万端よ!」と宣言するラストシーンは、現実の法と秩序を超越した、彼女自身の「映画的現実」への復帰を象徴しております。この「メドゥーサの視線」は、男性の視線によって対象化されがちな女性像への強烈なアンチテーゼとして機能し、鑑賞者をも不安に陥れる力を持つと言えるでしょう。
ハリウッドの自己言及性と映画の批評的機能
本作は、単なる個人の悲劇に留まらず、ハリウッド映画産業そのものへの鋭い自己批判を含んでおります。ジョー・ギリスが自身の死を語り手として物語を紡ぐという構造は、映画というメディアが現実をどのように解釈し、時には歪曲するかという問題提起を内包しております。ジョーはハリウッドの「夢」を追い求める若者たちの代表であり、彼がノーマという「過去の遺物」に囚われ、最終的に命を落とす様は、ハリウッドが自身の歴史と伝統をいかに残酷に消費してきたかを示唆しております。
サイレント映画からトーキーへの移行期は、多くのスターのキャリアを終わらせた一方で、新たなスターを生み出しました。ノーマ・デズモンドは、この移行期の犠牲者として描かれております。彼女の狂気は、単に個人の精神病理ではなく、システムとしてのハリウッドが作り出した「怪物」と解釈することも可能でございます。ビリー・ワイルダー自身、ハリウッド内部の人間として、その華やかさの裏に潜む非情な側面を熟知しており、本作を通じて業界への警鐘を鳴らしております。
さらに、セシル・B・デミルやバスター・キートンといった実在の人物がカメオ出演している点も、本作の自己言及性を高めております。これらの演出は、物語の虚構性を保ちつつも、それがハリウッドの現実と深く結びついていることを観客に強く意識させる効果がございます。映画は、自身のメディアとしての特性を逆手に取り、自己を対象化し批判する、メタフィクション的な構造を有していると言えるでしょう。
視線と権力の力学:ジョー・ギリスの破滅
ジョー・ギリスは物語の語り手であり、当初はノーマの狂気を客観的に観察する立場にございます。しかし、物語が進むにつれて、彼はノーマの経済力と精神的な支配下に置かれ、自身の主体性を失っていきます。彼の視点は、ノーマの「眼差し」によって徐々に囚われ、最終的には彼女の欲望の対象として消費され尽くします。
ジョーの死体がプールに浮かぶ冒頭のショットは、物語の顛末を最初に提示し、観客に彼の破滅を予見させます。この死者の視点からの語りは、彼が生きている間は気づかなかった、あるいは認めようとしなかったノーマの権力の絶対性を強調する効果がございます。彼はノーマという「檻」の中で、脚本家としてのキャリアも、人間としての尊厳も失い、最終的には肉体も奪われてしまうのです。
フェミニズム批評の観点から見ると、ジョーは伝統的な男性優位の視線構造における「見られる」対象へと転化させられます。ノーマは、男性の視線によって形作られる女性の受動的な役割を拒否し、自らが「見る」者、支配する者としての権力を確立しようとします。この視線の逆転は、当時のハリウッド映画において画期的であり、既存のジェンダーロールに対する挑戦的なメッセージを内包していると言えるでしょう。
結論
『サンセット大通り』は、単なるフィルム・ノワールの傑作としてだけでなく、視線、権力、ジェンダー、そしてメディアの自己省察という多岐にわたるテーマを深く掘り下げた作品でございます。ノーマ・デズモンドの「メドゥーサの視線」は、ラカン派精神分析の概念を援用することで、彼女の狂気がいかに男性中心的な社会構造とハリウッドのシステムによって作り出されたものであるかを明らかにするものでした。
本作は、ハリウッドが自らの神話を解体し、その裏側に潜む闇を露呈させるという、極めて批評的な役割を果たしております。ジョー・ギリスの破滅は、夢の工場がもたらす悲劇の象徴であり、映画というメディアが現実をいかに操作し、あるいは現実から乖離していくかという問題を提起しております。
『サンセット大通り』が現代においても色褪せることなく、多くの映画学研究者にとって魅力的な分析対象であり続けるのは、その物語構造、映像表現、そして人物描写が、複雑な理論的枠組みと結びつき、常に新たな解釈を許容する多義性を保持しているからに他なりません。本稿が、この傑作のさらなる批評的探求の一助となれば幸いです。